育児や家事を家庭内で如何にして分担するか,という古来からの難問がある.子どもをお風呂に入れる,歯を磨く,オムツを替える,夜に寝かしつける,散髪をする,爪がのびているのに気付いて切っておく,駄々をこねた時の対処をする,おだて急かして朝の準備をさせる,保育園に送迎する,健康状態と病歴を把握していて必要に応じて病院に連れて行く,休日に遊び相手をする,献立を考えて前もって買い出しに行く,食事の準備と後片付けをする,部屋の掃除をする,ゴミを分別して決められた日に出す,日用品をチェックして買い物リストをつくる,などなど,すぐに思い付くだけでも数多くの育児と家事があり,その中で誰がどのタスクをどれだけ担うか,という問題である.
かつて私は,これら育児と家事のおおよそ全てを妻に任せていた.もちろん,夫として妻を「手伝って」はいたし,頑張って育児に「参加して」はいたが,今思えばほとんど何もしていなかったと言ってよい.特に息子が1歳半から2歳半までの間は,私が単身赴任で海外におり,妻は国内でフルタイムの仕事をこなしながら子どもの面倒を一人でみていた.二人きりのアパートで子どもの朝食を用意し,ゆっくり食事をとる間もなく保育園に送り届け,その足で職場に出勤する.午後には,子どもが体調を崩したから迎えに来てほしいと連絡を受け,ようやく調子が出てきた仕事を切り上げて保育園に向かう.冷蔵庫のストックがなくなれば子どもを抱えてスーパーまで行き,重たい買物袋を手に下げて帰宅すると,息つく暇なく夕食の準備を急ぐ.夜も子どもはなかなか寝付いてくれず,慢性的な疲労と睡眠不足の中,仕事では結果が求められる.今でこそ基本的な家事と育児は私が担っているが,当時の妻の苦労を想えば,私の負担など比ぶべくもない.
きっかけはよく覚えていないが,私はある時点で,妻を「手伝う」とか,育児に「参加する」とか,家事を「分担する」とか,そういった意識を持つことをすっかり止めた.妻が大変そうだから少し休んでもらおうとか,妻が出張中なのでしばらく子どもの世話をしなければとか,妻が食事を作ってくれたから私は食器を洗おうとか,そのような考え方では「上手くいかない」のだと理解するようになった.そうではなく,育児や家事は私の生活そのものなのだと考えるようになった.妻の担当であるところに私が参加する,というようなものではないし,私の担当であるところを妻に手伝ってもらう,という話でもない.私自身の生活なのだから,私がやる.それだけのことである.かつて,妻がそうしたように.
そうやって,育児や家事を分担しようという考え自体を諦めることで,逆説的に,我が家では育児や家事を上手く分担できるようになった.今では妻も私も,それぞれに足りない部分を補い合いながら,また最近では息子にも助けられながら,家族として生活を営むことができている.もっとも,そう考えているのは私だけで,妻や息子には異論があるのかもしれないが.■