夕食に万願寺とうがらしを食べながら,妻とこんな話をした.
多くの人がそうであるように,私は小さいころ,苦味のある野菜が食べられなかった.ピーマンなどはその代表格である.当時通っていた保育園でも,給食にピーマンが出されるのが嫌で仕方なかった.あの緑色の物体が視界に入ると,それだけで気分が滅入った.そしてどういうわけか,まわりの大人たちはそれを私に食べさせようとするのである.美味しいから食べてごらんとか,食べないと大きくなれないとか,子どもの目にも明らかな詭弁を弄して.
息子も例に漏れず,ピーマンを食べない.というより,野菜全般を食べない.大人たちが緑の野菜を美味しそうに口に運ぶ様子を見て,いつも不思議そうな顔をしている.しかし苦味のあるものを食べようとしないのは,必ずしも子どもがワガママだからというわけではない.おそらく,自然淘汰の結果として,そう感じることのできる種が生き残ったのだ.苦味を察知して嫌悪することのできない種は,幼少期に誤って有害なものを摂取してしまうリスクが高い.そのような種は進化の過程で淘汰され,野菜を「嫌うことのできる」我々の種族が生き残った.だから息子の野菜嫌いは決して異常なことではなく,むしろ機能すべきものが機能していることの現れである,と勝手に思っている.今は嫌いであっても,食べるべきものとそうでないものとの区別が自分でつくようになったころ,自然と好きになればよい.私自身もそうだった.
ところが驚いたことに,妻は昔から好き嫌いなく,何でも食べていたのだと言う.苦味のあるピーマンも好きだった.今でも好んで野菜を食べているところを見ると,本当に好きだったのだろう.よく大人になるまで生きてこられたものだと思う.
しかし幼少期に野菜を好きになれる種は,遠い昔に淘汰されたのではなかったか.妻はもしかすると,かつて絶滅したと考えられた種の,数少ない生き残りかもしれない.■